二 赤のゆらめき

 夜間主コースに通った最大の利点は、入学と同時に、その意味において、その他大勢でなくなったことである。夕方から夜にかけて元気になる私の体質にあっていたし、少人数のアットホームな講義はそれなりに楽しく、学期が終わる頃には、先生方が学生の名前を大体覚えてくださっていたのもよかった。月一万円で住める女子寮では、私と同じ三階に住んでいたMちゃんとHちゃんが私を気づかってくれ、四年間を通じて得難い友人であった。
 そういえば、なぜ法学部に進学したのかというと、それ以外の学部に行く自分を想像できなかったからであるが、一年目は民法の講義が面白かったくらいで、特にやりたいことも見つからずにいた。突然弁護士を目指す気になるのではないかという淡い期待がなかったと言えば嘘になるが、そのような気配は一向になかった。実際に弁護士の方のお話しをきく講義で、離婚や交通事故の話しばかりきいてしまったことが一因ではないかと疑った。
 夏は、初めて好きになった人と、比叡山の植物園にデートに行った。お互い好きあってはいたのだが、その冬には別れた。私を大切にしてくれていたのに、自己否定の塊であった私は、彼を雲の上の人のように扱っていた。上手くいくはずもなかった。
 法学部には中国からの留学生が多く、華東政法大学からの交換留学生Sさんと仲良くなった。彼は事あるごとに、夢は自由な生活と大金を稼ぐことだと、真顔で、しかし目をいたずらっぽくして言うのであった。毎回、食事の際に眼鏡を外すのは何故なのかと尋ねたことがあるが、何と答えてくれたのかは忘れてしまった。いつものように学食で一緒に夕食を食べた帰り道、行政書士の資格の勉強でもしようかと思っていると言ったところ、彼はさらりと次のように言った。
 「まだ大学一回生で、これからなんでもできる未来があって、せっかく大学という場所にいるのに、なんでそんないつでもできることをするのか。司法試験を目指すっていうなら応援するけど。」
 信号機の赤色が、一瞬ゆらりと鮮やか光ったように思えた。
 その秋、中国への交換留学プログラムに申し込んだ。中国での生活費が支給されるという破格のプログラムであったが、まったく人気がなかったお陰で、スルリと留学が決まった。
 翌年の三月、寮の玄関でMちゃんが見送ってくれた。いつだったか、クラスメイトの一人が、「みんながあなたのことを〇〇と思っている。」と今思えば小学生のようなラインを送ってくるので、泣きべそをかいていた。すると彼女は、その送り主のラインの名前を「アホ」に変えて、こんなの気にしたらダメだよと言ってくれた。別れ際、彼女の目が潤んでいたことが印象に残っている。強くてさっぱりした性格の彼女の涙をみたのはその時が最後であった。彼女曰く、泣くと脱水症状で頭痛がするから泣かないそうだ。
 中国へ向かう飛行機の中で、期待も不安もなかった。どうにでもなれという気持ちだった。

 

二○二五年六月十日 北京